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手術から入院生活6「穴澤賢の犬のはなし」
手術から入院生活6
それらふたつの人格は交わることなく平行して存在し、ある日、水の中にいた方が水面から顔を出して本当の現実を把握した。今となればそういうイメージに近いが、となれば起きているときはいったい誰だったのか。なぜそいつは粗暴で、好き勝手していたのか。
おそらく別の人格なんかではなく、意識は戻っても大脳皮質や海馬あたりがちゃんと機能していなかったため理性や記憶力が欠けていたのだろう。しかし脳は自力で少しずつ修復しようとしていた。だから時間が経つにつれ、お見舞いに来てくれた人の顔などがちらほらと残るようになってくる。ただ、記憶としては不十分で、映像としてではなく断片的な画像でしかない。
日にちが経つにつれ、その情報量が増えていく。看護師さんと病院内を移動したときの会話や、窓の向こうの街の景色、痣だらけになった自分の腕を見たことは覚えている。そして、2018年3月29日を迎えたのだろう。しかしその日を境にすべてが変わったわけではなく、それ以降も覚えていないことがあったりする。でも現実を把握してからほどなく、それまでの傍若無人な面は消えた(と思う)。
それから2カ月ほどで、医師からは後遺症が残るだろうと言われていたのに、こうして文章が書けるまでに回復している。大袈裟に言えば「死にかけた」のかもしれない。担ぎ込まれたときの小脳の出血が止まらなければ手術しても無駄だったと聞いた。なぜ助かったのか、理由はわからない。ひとつハッキリしているのは、三途の川らしきものを見ていないことだ。
生死をさまよった人は、三途の川のほとりに立ったり、向こう岸に亡くなったはずの親しい人がいて、引き返すように言われたりしたという話をよく聞く。しかし今回、川も見ていなければ、誰にも会っていない。
それは脳が見せる錯覚なのかもしれないが、実は私には、そういうときに現れてほしいと思っている犬がいて、また会いたいと思っている友人がいる。できればあいつを抱きしめたり、友人と趣味の合う音楽の話でもしたかったが、姿を見ることもなく、そもそも自分が危ない状況になっている自覚もまったくなかった。
よく、九死に一生を得た人は人生観が変わると聞く。しかし私に関しては、そんなことはほとんどない。けがをしたときのことも、危ないときの記憶も何もない。覚えているのは、軽バンでタタミイワシを売り歩いていたことくらいだ。あるときぷつんと記憶がなくなり、気がついたら病室で、その間がごっそり抜け落ちている状態だから、悟りようがない。
(おわり)
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