先代犬の「富士丸」と犬との暮らしと別れを経験したライターの穴澤賢が、
数年を経て現在は「大吉」と「福助」(どちらもミックス)との暮らしで
感じた何気ないことを語ります。
いつの頃からか、友人から「分かりやすいやつ」と言われるようになった。彼らに言わせると、私はつまらないと露骨につまらなそうにして、興味がないことに対しては「へぇ」とチョー適当なリアクションをするらしい。失礼な。もう52歳になるし、いい大人なので場の空気くらいは読める。
気持ちがストレートに出るようになった?
つまらなくても黙って話は聞くし、興味がないことでも「ほぅ、それで?」と相づちを打つことくらいはできる。しかし、分かりやすいと指摘するのは1人や2人ではなく、友人たちには周知の事実として共有されているので、たぶん彼らのほうが正しいのだろう。
仮にそうだとしても、それは私の本質ではない。周囲の人が困ってるようなら、なるべく親身になって考えるようにするし、自分だったらどうするだろうと置き換えてみたりもする。けれど、他人の悩みが全部深刻かというとそうでもなく、中には、はたから見ればどっちでもいいこともある。友人との会話だってそれほど重要なことではなく、だいたいはどうでもいい話である。そういうとき、興味がないと顔に出てしまうのだろう。私がそうなってしまったのは、犬たちの影響だと思う。
素直すぎる犬の感情表現
なぜなら、犬は本当に感情がストレートに表情に出るからだ。
先代犬の富士丸もそうだったし、大福もまったく同じだ。つまらないと露骨に顔に出るし、興味がないことはスルーする。さらに、自分に都合が悪いことは聞こえないふりをしたりもする。
本当は楽しくないし興味もないのに、気を使ってそれっぽい態度をとる犬を見たことがない。常に正直なのだ(ちなみに犬はうそがつけないかというとそうでもなく、すでに妻からオヤツはもらったくせに、まだもらってないというたぐいのうその演技はする)。
長年そんな犬と暮らしてきたせいで、そんな性分が伝染したのではないかと思う。犬と暮らしている人の多くは「私もそうかも」と感じるのではないだろうか。それに、変に気を使うのはその人に対して失礼な気がするし、自分だったらいやだ。もちろんすべての場面でそんなにストレートではないが、犬の影響でそうなりがちなのかもしれない。
けれど、考えようによっては自分の感情に正直なほうが楽なのだ。いやな場所に気を使ってがまんしているくらいなら、早く立ち去ったほうがいい。理不尽なことを要求してくる人とは付き合わないほうがいい。そういう考えになる。犬に自分の周囲の環境を変える自由はないが、私にはある。
だから私は、犬が取り巻く環境をより快適にしてやる義務がある。何もなくてつまらないのはがまんしてもらうしかないこともあるが、休日にはなるべく彼らが喜ぶことをしてあげたいと思っている。たとえば、山の家に行くと大福は本当に顔を輝かせて嬉しそうにしている。そんな顔を見ると、なぜかこちらまで嬉しくなる。そうやって人を動かす犬は、やはり不思議な力があるんだなと思う。
ただ、そんな感情をストレートに出す犬たちの要求に従っているかというと、そうでもない。定期的な健康診断のために動物病院に行くと、この世の終わりのような顔をするが、それは知らん。君たちの嬉しそうな顔を少しでも長く見るために、そこは譲らない。
プロフィール
穴澤 賢(あなざわ まさる)
1971年大阪生まれ。2005年、愛犬との日常をつづったブログ「富士丸な日々」が話題となり、その後エッセイやコラムを執筆するようになる。著書に『ひとりと一匹』(小学館文庫)、自ら選曲したコンピレーションアルバムとエッセイをまとめたCDブック『Another Side Of Music』(ワーナーミュージック・ジャパン)、愛犬の死から一年後の心境を語った『またね、富士丸。』(世界文化社)、本連載をまとめた『また、犬と暮らして』(世界文化社)などがある。2015年、長年犬と暮らした経験から
「DeLoreans」というブランドを立ち上げる。
ブログ「Another Days」
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大吉(2011年8月17日生まれ・オス)
茨城県で放し飼いの白い犬(父)とある家庭の茶色い犬(母)の間に生まれる。飼い主募集サイトを経て穴澤家へ。敬語を話す小学生のように妙に大人びた性格。雷と花火と暴走族が苦手。せっかく海の近くに引っ越したのに、海も砂浜もそんなに好きではないもよう。
福助(2014年1月11日生まれ・オス)
千葉県の施設から保護団体を経て穴澤家へ。捕獲されたときのトラウマから当初は人間を怖がり逃げまどっていたが、約2カ月ほどでただの破壊王へ。ついでにデブになる。運動神経はかなりいいので、家では「動けるデブ」と呼ばれている。